〈大阪の風呂屋〉
風呂屋は大阪文化の礎である。関東地方では「銭湯」と言い「銭」を頭に掲げるが、大阪では親しみを込めて「風呂屋」と言う。風呂屋は、単に金を払い、体を洗い、湯船につかる為だけの場所ではない。
〈「祈り」の風呂屋〉
「ハレとケ」は、柳田國男によって見いだされた、時間論を伴う日本人の伝統的な世界観であり、「ハレ」とは儀礼や祭りなどの「非日常(聖)」を言い、「ケ」とは普段の生活である「日常(俗)」を指す。この「ハレとケ」の概念においては、「葬式」を「ハレ」と見るか「ケ」と見るかが議論となる。「非日常」ではあるが「聖」とは言いがたい「葬式」や、「日常」ではあるが「俗」とは言いがたい「礼拝」は、「ハレ」と「ケ」の間に位置し、この領域を「神が宿る領域」として考えると、以下の図が考えられる。
「キヨメ」と「ケガレ」という「神が宿る領域」を考慮する事により、「ハレ」という非日常から「ケ」という日常に戻り、その日常が蓄積され「ケガレ」、それを「キヨメ」、また「ハレ」の場が訪れるというモデルを考える事ができる。「葬式」や「礼拝」は、まさにこの「神が宿る領域」に位置し、これが全ての日本人の習慣として位置付き、日々の営みとして身の「ケガレ」を「キヨメ」ている。それが「入浴」であり、すなわち「祈り」である。「賽銭さえ払えば浄められる」という発想のもと「銭湯」と呼ぶ人もいるかも知れないが、身の「ケガレ」を「キヨメ」るという行為、すなわち「祈り」こそが、「風呂屋」の本質である。
〈「真なる歴史」を紡ぐ風呂屋〉
ドロレス・ハイデンは、著書“The Power of Place”において、「都市における真の歴史は、英雄的な出来事によってつくられるものではなく、労働者階級である都市生活者1人ひとりの記憶の蓄積によってつくられる」とし、それをパブリックヒストリーと呼んだ。また、彼女は、そのパブリックヒストリーを紡ぐツールとしてオーラルヒストリー(口伝えによる歴史)を用い、都市生活者1人ひとりから聞き取り調査を行う事で、都市における真の歴史を紡ぎ、その場所に潜在する力を継承するプロセスを示している。
日本の都市において、真の歴史は風呂屋で語られる。井戸端会議ならぬ湯殿端会議で交わされる会話は、都市生活者1人ひとりの生活・文化、その奥深くまでが、自然に流れ出る。単なる「銭湯」ではない、「風呂屋」においては、「語り」こそが風呂の中に入っているものであり、我々は「湯」だけではなく、「オーラルヒストリー」に浸かり、真の歴史を紡いでいるのだ。
〈「歴史の補完」と「祈り」の再構築〉
この「風呂屋」が、現在、恐るべきスピードで失われ続けてる。これは、単に「銭湯の経営不振」「銭湯は時流に合わない商売」というだけの話ではなく、我々は風呂屋文化喪失の危機に面しており、これはすなわち、「祈りの喪失」であり、「真なる歴史の喪失」である。「祈りの再構築」及び「真なる歴史の補完」を目的として、上町台地において失われた風呂屋とその文化を、オーラルヒストリーを通じて明らかにすると共に、風呂屋文化の喪失を食い止め、また、新しい風呂屋文化の創出に寄与するため、本事業を実施する。 |